長い目で見れば、とんでもないアルバート・ホフマンの自転車操業になった。
1943年4月19日、アルバート・ホフマン博士は、250μg(0.25mg)のリゼルグ酸ジエチルアミドを摂取した後、研究室から自宅までペダルをこいで帰った。スイスのバーゼルにあるサンド研究所の研究化学者であったホフマンは、自分に何が待ち受けているのか、ほんの少ししかわかっていなかった。
3日前、研究所で作業中に誤ってリゼルグ酸ジエチルアミドを吸収してしまったのだ。ホフマンは、長年、ライ麦に生えるエルゴットという菌から化学物質を分離し、新しい合成変種を作ることに専念していた。サンド社での長いキャリアの中で、彼はエルゴットに含まれる天然化合物から、化学的にユニークな人工リゼルガミドを数多く生み出してきた。その日、彼が生物学的定量法で観察していたのは、1938年に開発された25番目の化合物であったため、略称としてLSD-25と呼ばれるようになった。この化合物は動物実験が行われ、子宮に強い影響を与え、動物を落ち着かなくさせることが分かったが、しかし、この化合物には全く毒性がないように見えた。
5年後、ホフマンは、LSDをさらにテストすれば、まだ医学的な応用が可能かもしれないとひらめいた。彼は、LSDの新しい製剤を作り、最後の再結晶の段階で、ある異常な感覚を覚え始めた。彼はその体験を自伝『LSD – My Problem Child』に記している。
ホフマン博士の代表作とも言える著書“LSD – My Problem Child”はこちらから無料で英語版しかないが読むことができる。ぜひ未読の方はお読みになられては。
「私は午後の半ばに実験室での仕事を中断して家に帰らざるを得なかった。家では横になって、想像力を極度に刺激されるのを特徴とする、それほど不快でない酩酊状態に陥った。夢を見ているような状態で、目を閉じていると-昼間の光がまぶしくてたまらない-、幻想的な絵が次々と現れ、万華鏡のような強烈な色彩を放つ非日常的な形が見えてくる。2時間ほどして、この状態は消えてしまった」。
この体験は非常に興味をそそるもので、ホフマン博士は3日後にわざと自分自身にLSDを投与してみた。彼はノートに実験の開始を記録している。
17:00:めまい、不安感、視覚のゆがみ、麻痺の症状、笑いたい気持ちの始まり
アルバート・ホフマンの日記より
アシッドが効いてきたので実験ノートはそこで終わってしまったが、ホフマンは自伝の中で残りの体験を語っている。「私は、この自己実験のことを知らされていた実験室の助手に、家まで付き添ってくれるよう頼んだ。戦時下で自動車は使えないから、自転車で行った。その途中から、私の体調がおかしくなってきた。視界のすべてがゆらぎ、カーブミラーのように歪んで見えるのだ。その場から動けなくなるような感覚もあった。しかし、後でアシスタントから聞いたところでは、『私たちはとても速く移動していた』そうだ」。
家に帰り着くころには、ホフマン博士はトリップボール状態になっていた。ホフマンは気が変になったのか、死ぬのではないかと心配になり、医師を呼んだ。医師はこの実験のことを知り、ホフマン博士の瞳孔が「極端に開いている」ことを指摘したが、それ以外の外見的な症状は見つからなかった。数時間後、ホフマン博士がようやく冷静になってきた。
「閉じた目の奥に広がる、かつてない色彩と形状の戯れを、少しずつ楽しめるようになった。万華鏡のような幻想的なイメージが、交互に、多彩に、円や螺旋に開いたり閉じたり、色のついた噴水が爆発したり、絶えず変化しながら、自分自身を再配置し、ハイブリッド化して、私の前に押し寄せてきた。特に、ドアの取っ手の音や自動車の通過音などの音響的な知覚が、光学的な知覚に変化していくのは驚くべきことであった。すべての音は、独自の一貫した形と色で、鮮やかに変化するイメージを生成したのです」。
こんにち、研究者からダンスイベントに参加するレイバー、ブロッターアート製作者まで、幅広いサイケデリック・コミュニティーの間で、4月19日は 「自転車の日 」として祝われている。1985年、北イリノイ大学の教授、トーマス・B・ロバーツ博士によって、この祝日が考案された。現在、ロバーツ博士はスタンフォード大学の名誉教授で、世界で初めて大学でサイケデリックの講義を行った「Foundations of Psychedelic Studies」の教鞭をとっている。
ブロッターアートの原画「Bicycle Ride Memorial Day」は、ホフマンの1943年の実験から50年余り後の1994年にヨーロッパで初めて公開されたものである。自転車に乗ったホフマンは、日記に書かれた状態よりもはるかに快楽的な状態にあるように見える。山はマッターホルンと思われ、場所はスイスのバーゼルとわかる。太陽と月は、意識と潜在意識の一体化を表している。星の「25」は、LSD-25のことである。
2008年に102歳で亡くなったホフマンは、このオマージュを喜んでいるだろうか。一見、難しいように思われるかもしれない。LSDの発見と、それがきっかけとなったカウンターカルチャー革命について、彼は『LSD – My Problem Child』に書いているように、その感情は複雑であった。LSDの祖となった喜びは、「10年以上にわたって絶え間ない科学的研究と医薬品としての使用を続けた後、1950年代末に西洋諸国、とりわけアメリカに広がり始めた酩酊状態のマニアの大波にLSDが飲み込まれたとき、損なわれた 」という。
その時代については、検証していくことにする。ホフマンが特に懸念したのは、LSDの強力な効果に対する準備ができていない10代の若者への流通、監視されていない状況での服用の危険性、闇市場で購入した場合の入手先の不明確さなどである。こうした懸念は、現在でも薬物愛好家の多くが抱いている。
しかし、ホフマンは、知識人、作家、芸術家、音楽家、その他の創造的な人々が、LSDやその他のサイケデリックを、頻繁には使用せず、熟考し、管理された状態で使用することを支持した。
彼は何度か自らもLSDを服用し、他人のためにセッションを行った。サイケデリック・アートの発展にも興味を持ち、この分野で活躍する著名なアーティストの作品を自らコレクションしていた。H.R.ギーガー、アレックス&アリソン・グレイ、マルティナ・ホフマン、マーク・マクラウド、ロバート・ヴェノーザ、フレッド・ワイドマンは、彼の100歳の誕生日に開かれたパーティに出席している。
LSDなどのサイケデリックな薬物による強烈なヴィジョンを体験した後でなければ制作できないような作品が多いので、彼が喜ぶに違いない。
彼は『LSD – My Problem Child』の中でこう書いている。「もし人々がLSDの幻視誘発能力をもっと賢く、適切な条件下で、医療行為や瞑想と組み合わせて使うようになれば、将来、この問題児はワンダーチャイルドになれると信じている。」と。